写真は夜のトンネル。
13年ほど前、毎週末のように夜景を撮りに秩父へ行っていた。
当時(25〜27歳くらい)ぼくは自分の好きな時に好きなものを撮って、それだけで
身を立てていきたい(と言うか、単純に好きなことだけをして)
と、思っていた。
22歳で学校を出てから親元へ戻り、1年ほどは今で言うニートだった。
(ニートって15歳〜34歳までを指すって知ってました?)
ニートでいる間、何をどうすべきかわからず、何のアイディアも無く、
時の流れに身を任せたり抗ったりを延々繰り返していた。
学生(学校は関西だった)の時は誰かしら共に過ごせる友達がいたのが、
親元に帰省してからは1人だった。
両親や祖父や妹はいたのだけれど、中学・高校の友達とは疎遠になっていたし、
付き合っている彼女もなく、遊びまわる知恵もお金も無く、中途半端な若さと、
有り余った時間だけがあるのだった。
「定職につけ」とは言われなかった。
それはもしかしたら中学の時に進学を嫌がったぼくに「大学まで行きなさい。
その代わり、進学後はうるさく言わないから」を実践していたのかもしれないけれど、
たぶん実際はイライラし通しの息子をただ持て余していたのだろう。
ぼくは勉強ができなかったので、進学は苦痛だった。
小学校でギリギリ。中学校になるとどの教科もさっぱりで、
教科書の内容はまるで暗号だった。
そんなだから中卒で何か仕事に就いたほうが自分には良いと思っていたのだけれど、
母はそれを許さなかった。
だから、そんな風にして無理やりにでも進む大学ってのはもの凄い場所なんだろう
と思っていた。
ぼくが入ったのは芸大の写真科だったのだけれど、進学が決まった時には、もうこれで素敵な未来が約束されたと思った。
でもそれは大きな思い違いだった。
そして卒業後、有り余る時間と対峙した。
ベッドの中で縮こまっていると、無為に過ごした(と感じてならない)大学4年間が
ぼくを攻め立てた。
学生の頃とほとんど変わらず夜型の生活を続けていたぼくは、
昼頃になんとか目を覚まして、昼飯を兼ねた遅い朝食を食べ、
それからまたベッドに潜り込むと文庫本を読みつつ、うとうとする。
そんなことを何日も繰り返していた。
そんな繰り返しに耐えきれなくなったある夜、ドライブへ出た。
夜は優しい。
ぼくは思うままに走った。
向かったのは繁華街ではなく、飯能のさらに先にある秩父だった。
そうして行き着いた夜の秩父、とりわけ夜のダムは最高の舞台装置に思えた。
だからそれ以来、何度も何度もそこを尋ねた。
写真はそんなある夜に写したもの。
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「秘密基地 その6」
小学校の4年生。10歳の頃。ぼくは幼馴染と3人で近所の林の中に秘密基地を作った。
それは倒れて傾いた木にブルーシートをかぶせた簡単なものだった。
ある日、行くと、その基地は近所のおばさんの手によって壊されていた。
行き場の無くなったぼくらが自転車でウロウロしていると、
やはり自転車でウロウロしているクラスメイトと遭遇した。
彼らに「秘密基地が壊されてしまった」と話をした。
すると「すごい基地がある」と案内された。
それは壊されてしまった秘密基地と同じ林にあった。
ただそれは林の内側ではなくて、道路に面して土の盛り上がった林の側面にあった。
その入り口は垂れ下がった木の根や雑草に半ば埋もれるように覆われて、
まるで隠されているようだった。
それは防空壕だった。
「防空壕」の入り口は狭く、ぼくらは恐る恐る一人ずつ中に入った。
とても暗くて中の様子はわからない。ただ、意外なほど広いようだ。
少し先へ進むと足元に枯れ葉が落ちていてそれがサクサク音を立てる。
ただし、暗くてその葉っぱは見えない。
息苦しい。
すぐに外へ出ると、外の明るさに驚いた。
すぐに懐中電灯を取りに行き、またその防空壕へ集まった。
懐中電灯の明かりを点けて中へ入る。
それは四角い部屋だった。
広い。
ショックだ。
ぼくら3人が地下基地を夢見て散々ショベルを使っても、自分の背丈ほどの穴も
掘れなかったのに、ここは子供6〜7人が入ってもまだ余裕がある。
そして穴はもう少し先まで続いている。
土の壁は艶やかで滑らかだ。ここには木の根も飛び出していない。
とその滑らかな土壁が、ある地点から急に凸凹としている。
懐中電灯で照らしながら近づいて見てみる、、とそれは大量のコオロギ?
カマドウマ?良くはわからないがそれはそういった類の虫たちだった。
それが土壁のある地点から奥へ向かって密集して張り付いている。
そして気がついてみると、足元も一面その虫だらけだった。
靴に踏まれてサクサク音を立てていたのは落ち葉でなく、それだった。
ショックだ。
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続きはまた。