2020年7月26日日曜日

2020/07/26 笑う

連日雨。
洗濯物が干せない。
このままではカビが生えてしまうし、着替えもなくなってしまう。

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もう20年以上前だけれど、大学で健康診断を受けた。
大学での健康診断は4年間に一度きり。
入学したての頃だった。
まだ知り合いも殆どおらず、新入生みんなが検尿のカップを抱えて長い列をつくっていた。天気がよく、屋外のこと。検尿の列は校舎に続き、トイレの空く順番を待っていた。
そこへ1つ、サークルの勧誘があった。
漫研だった。
まんけん。何やらいやらしい響きだが、漫才研究会のことだ。
順番待ちで、暇を持て余している新入生を笑わせる。いかにも関西らしい、最高のおもてなしだった。
オリンピック誘致を狙うスピーチの中で口にされた、いい加減な「おもてなし」とは違い、本物だった。

当時、ぼくは頑な(かたくな)だった。
今よりはるかに頑なだった。
当時ぼくは、笑うのは男らしくない、と思っていた。
笑いは、恥ずかしいモノだと思っていた。
だから、ぼくにとっては、笑うのは一人、もしくは親しい人たちと少人数で共有するものだった。

そこへ漫研だ。
最高に笑えた。
周囲は知らぬ人ばかり。
笑いたい、が笑えない。
ぼくは、つらかった。
だから、検尿カップを抱えたまま、引きつけを起こしたように震えていた。カップが空で本当に良かった。

健康診断の列は遅々として進まず、
塞ぐことのできない耳には発作を起こさせること必至の漫談が飛び込んでくる。

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つづきは、また。

2020年7月19日日曜日

2020/07/17 石原裕次郎の石原軍団

石原軍団が解散する。
と言っても、感慨があるのはぼくより上の世代や西部警察などのファンが多いのではないだろうか。
いま40ちょいのぼく自身、ほとんど感慨は無い。

ただ石原裕次郎が歌う「嵐を呼ぶ男」や「わが人生に悔いなし」は好きだ。

ぼくが高校生の時・・20年以上前・・地域のケーブル化により自宅のテレビで衛星放送が見られるようになった。それで、日活やMTV、などを見た。MTVでは、藤井フミヤの「タイムマシーン」やTAKE THATの「HOW DEEP IS YOUR LOVE」、PULPの「COMMON PEOPLE」のPVが面白くて印象的だったのを覚えている。

日活(日本活動寫眞株式會社の略称だそうです)、は日活ロマンポルノ狙いで深夜に見ていたのだけれど、度々CMで「嵐を呼ぶ男」の映像が流れていて、そこでドラムを叩く裕次郎がとても格好良かった。(たぶん裕次郎特集が組まれていたのだろう。が、映画の方は結局観ていない。

その頃(20年ほど前)、石原裕次郎が何者なのか知らなかったぼくが母に尋ねたところ、「日本人離れして、足が長い」と言っていたのを覚えている。ぼくにはスーツを着こなした粋な男で、映画のなかではきらきらして見えた。

ぼくはそのCMでしか知らない。
嵐を呼ぶ男、見てみたいと思う。

他にも「太平洋ひとりぼっち」も気になる映画だ。

石原裕次郎は、銀幕のスター、と呼ばれていた。
銀幕って映画を指す言葉だなんてそのころは知らなかった。

生前の元気だった裕次郎を銀幕の中でしか(しかもCMの中でドラムを叩いているシーンを含めた1分ほど)知らないぼくにとって、石原軍団のボスは、なぜか石原慎太郎前都知事なのである。

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アフィリエイトについては、またいずれ。

2020年7月12日日曜日

2020/07/12 自粛による変化

以前、良く秩父で夜景の写真を撮ってました。
もう10年以上も空いてしまいましたが、最近また夜景を撮るようになりました。以前とは違い、町の夜景ですが。

それは、自営業からサラリーマンへ転身して重い機材を持っての移動が減ったことが一つの要因で、もう一つはコロナによる自粛に要因があります。

自粛中の写真に対する変化はその自由時間にありました。
自粛中たびたび近所を散歩しては川原や公園で写真を撮っていたのですが、それが自分にぴたっとはまったのです。まるでドラクエのようにうろうろ歩き回って気になる場所を見つけたら写真を撮る。そして撮った写真をInstagramに上げる。それが単純に面白い。

もしネットが無く、Instagramがなかったら、こうはならなかったでしょう。写真展でもしなければ写真を外へ出すことはままならず、いつまでも手元に残ったままだったかも知れません。いまどれくらいの人が自分のブログやInstagramを見てくれているのかはっきりはわからないのですが、ともかく外へ出せるのは嬉しいのです。

ただし、これが少しでもお金になれば、となると前回までの話に戻るのですが、今回はここまでで。

2020/07/12 ブログの引越

前回ブログをお金にしたい、と書きました。
それにはブログに広告を貼るのが、話が早いと思っていたのですが、かれこれ5年ほどそれが出来ずにいました。と言うのもブログはいま書いている「Blogger」で、貼る広告は「AdSense」で、とこだわっていたからです。BloggerもAdSenseも「Google」運営ってことで相性が良いに違いないと思ったので、当初ブログを書いていた「FC2ブログ」からわざわざ?Bloggerへ引っ越したのです。

ですが、思わぬことで、BloggerとAdSenseの相性は悪く(引っ越す前に良く調べるべきだったのですが、どちらもGoogleの運営なので間違いないと思っていたのです)、素直に広告が貼れないのです。

具体的には、書いているブログがBloggerだと、AdSenseに審査の申請が出せない。申請が出せなければ当然、いつまで経っても広告が載せられない。同じGoogle同士でなぜこんなことが起こっているのだろう?仕方がないので、ぼくのホームページのURLで審査をお願いしました。すると、Googleから思わぬ返事が来ました。

それは「審査に送られたURLはAdSenseのポリシー違反です」といったような内容でした。

審査に自分のホームページURLを送る際、実際に載せたいのはホームページではなくて、Bloggerで書いているブログだ、と補足していたのですが、伝わらなかったようです。

そしてAdSenseからの、ポリシー違反のメールに対してぼくの方から、「Bloggerから申請が出来ないので、一旦ホームページURLで申請を出しました。審査が下りた際に実際に広告を張りたいのはこちらのURLです」と、BloggerのURLを伝えても、Bloggerからは、
「ポリシー違反をした方には許可を出せません」と拒否されてしまいます。

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続きはまたです。

2020年7月5日日曜日

2020/07/05 ブログで収入がほしい

子供が生まれる前後で中断していたものの、2015年の1月から書き始めたので、期間だけで言えば5年ほどブログを続けています。

書くことが好きなので半ば趣味でもあるのですが、始めた当初から自分のブログが少しでもお金になったら嬉しいのに、と思っていました。ですが、これが思った以上にややこしいのです。そもそも最初にブログに載せよう(アフィリエイト広告。インターネット配信広告のこと。だそうです)と思っていたのはGoogleが運営している、AdSenseという会社が配信している広告でした。それは単純にGoogle=格好いい・有名って考えがあったのと、「アフィリエイト」で検索したときに、色々なサイトですすめられていたからです。そもそも、ブログ・副収入のキーワードで検索してみるまで、AdSenseと言う会社自体、知らなかったのですが、、。

5年前にブログを始めたとき、ぼくはいくつかある候補からFC2ブログを選びました。決め手が何だったのかは忘れてしまったけれど、livedoorには何となくいやらしいイメージがあり、アメーバブログには芸能人のイメージがあり、で結果的にFC2へたどり着いたような気がします。

それからここのBloggerに引っ越して来たのは、BloggerこそがGoogleの運営だからです。ですが、いまだに広告が載せられません!と言うわけで、これから通常のブログと並行して自分のブログに広告(AdSenseにかかわらず、、)を載せるまでの記録としてのブログもしばらくの間付けていきます。

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写真は川辺りの小道で撮った夜景です。
最近こうしてブレた夜景写真に凝ってます。
Instagramにもぜひ。毎日更新しています。
https://www.instagram.com/isida_sekiden/?hl=ja

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では、また次回に。

2020年6月28日日曜日

2020/06/28 オリジナル宗教

以前に良く、ダムの夜景を撮りに行ってました。
もちろん写真を撮るのが1番の目的でしたが、夜に広大なダムの周りを歩いて探検気分が味わえるのも嬉しかったのです。お気に入りのダムまでは片道90分ほどで、山中のことラジオが入らず、いつも色々な音楽をかけながらのドライブでした。本当に様々なCDをかけていたはずなのに今となってはほとんど覚えておらず、ただ「やの雪」のテルミンだけは聴いているうちに次第に怖くなり、べつの音楽に変えたことをしっかり覚えているです。

最近、夜の風景を撮っていると、デジカメって本当に便利だなと思います。それこそダムの写真を撮っていた頃はフィルムカメラを使っていたので、撮って帰って現像して、そのフィルムから写真をプリントして、それでようやく完成形を確認できたので、シャッターを切ってから仕上がりを見るまでに相当の手間と時間が必要でした。それがデジタルになってからは、撮った直後に仕上がりを想定できるのだから、本当に便利で、嬉しいのです。

フィルム現像は手間。フィルムは保存に場所をとる。フィルムはプリント(写真に)するのも大変。デジタルカメラが生まれた今、フィルムは短所ばかりに思える。そして実際フィルムのほうが良かったことを考えてみてもそれがほとんど思いつかないのです。

でも思い返してみると、以前結婚式場で写真を撮っていたとき、「デジタルデータは一瞬にして消えてしまうから怖い」と聞きました。確かに、それはありますね。ぼくは撮った写真データをパソコンに残していますが、もしハードディスクが壊れてしまったら、確かにそれまでだから、バックアップが大切です。

それからそれからコピーの問題がありますね。これはまず一番に思い出すべき問題でした。これは写真家のみならず、画家、音楽家、漫画家、作家とあらゆる創作活動をしている人にとっての問題でしょう。デジタル作品はオリジナルを完全にコピーできるのだから。

音楽ならリスニング環境で、写真や絵ならモニター環境で、映画なら視聴環境で、画質や音質は変わるけれど、それだって、もしかしたら受け手側に、作り手のものより良い環境が揃えられているかもしれない。となるとオリジナルの価値はどこに求められるのでしょう。

オリジナルの価値が高い作品は、作り手がデジタル配信する際に「その価値を下げる」という方法はあります。音楽なら音質を劣化させたり、実際の曲より短くするなり。絵や写真なら画質を下げることができる。そして、その作品の完全版を受け手側が求めたとき、そこでビジネスになる。

それでもデジタルはコピーできる。もし完全版を手に入れた受け手が、それをコピーしたら、完全版がもう1つできてしまう。それも簡単に。となるとオリジナルの価値はコンサートや展覧会といった、パソコンから離れたところで生まれるのだろう。

それぞれの場で、そこの空気を吸い、皮膚で感じ、実際に見る。それで何かを感じ、これまで以上にその人物や作品が好きになるのなら、それは最早、宗教に近い。

2020年6月20日土曜日

2020/06/20 憧れの朝食

通勤電車は以前のような混雑で、コロナ騒動の頃が嘘のようだ。行き帰りの電車が空いてくれたらずいぶん楽になるのだけれど。ところでぼくが小学生の頃、まだ土曜日は半休で3時間分の授業があった。それが高校の途中から土曜日はお休みになり、週休2日制が導入された。土曜休みは1992年から徐々にスタートし始めて、2002年に完全に?根付いたとされている。10年近くかけて広めたことになる。それ以前から社会に出ていた労働者はずっと週休1日半で働いていたのだろうか?恐ろしいことだ。しかし逆に考えればこの前例のように徐々に休みを増やしてゆくのも可能だろう。まずは月に2回位、金曜休みがあっても良いのでは、と思う。ローテーションを組めば会社全体に与える影響も少なくできるし、個人個人の健康増進にもいい影響があると思うのだが。

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一人暮らしを始めた頃のことを前回書いて、その頃にどんな朝食をとっていたかを書こうと思ったのだけれど、話が汚い方向に進むので、簡単に。ホテルのような朝食に憧れて、オレンジジュース、ヨーグルト、とここまでは普通なのだが、それに白米、そしてもずく酢、そして納豆。たぶんお酢とヨーグルト、オレンジジュースあたりの食べ合わせがお腹に嵐を呼び込んだのだろう。

2020年6月14日日曜日

2020/06/13 ノックの音 その2

ぼくの好きな画家に「野又穣」さんがいる。
学生のときに池袋の西武百貨店ギャラリーで初めて見た。
野又さんの描く建築物は、(矛盾した言葉だけれど)近代的な遺跡のようであり、見ていると不思議な気持ちにさせられる。
写真はうちの近所にある給水塔。
曇り空と塔の佇まいに野又さんの世界と通ずるものを感じた。

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ノックの音 その2

前回からの続きで、一人暮らしを始めた頃のこと。
大学が始まってしばらくの間、ぼくは同じ学生マンションに住む友人と通学した。学校は狭い道路を挟んで目と鼻の先だった。1回生の頃はまだ授業が多く、ほぼ毎朝、彼と廊下で待ち合わせ(同じ階に住んでいた)て学校へ向かった。一人暮らしを始めてから何故か朝シャン派(朝シャワーを浴びる事。洗髪や身体を洗うのは勿論、髭剃りもこの時にする)になっていたので、朝は朝食を食べ、シャワーを浴び、教科書を抱え、それからドアを開けて外へ出る事になる。
ただし、中学からの夜型体質にはますます磨きがかかっていたので、いくら大学の近くに住んでいても目覚めは悪く、いつもぎりぎりまで寝ていた。
その日もやはりぎりぎりで、急がないとまずいな、と思いながらぼくは朝シャンをしていた。すると、ドンドンとノックの音がする。遅いので迎えに来てしまったのだろう。中で待っていてもらうしかない。腰にバスタオルを巻き、玄関のドアを開けた。でも誰もいない。なんて事だ、先に行ってしまったのだ。しかたないか。ぼくは頭に残ったシャンプーを流すため、改めてシャワーを浴びていた。するとまたドンっとノックの音が。ぼくはタオルを巻くのもそこそこ(何しろ18歳だったのだ)にドアを開けた。が、やはり誰もいない。不思議でならなかった。
それから服を着てバッグを抱え、ぼくは友人の部屋をノックしてみた。彼は部屋にいた。2回も迎えにに来たでしょう?と聞いてみると、「いや行ってない、でもうちでもノックの音がした」との事で、2人して不思議に思いながらマンションの階段を降りようとした時、ドドンっと爆発音が響いた。ノックの音はこの爆発音が原因だったのだ。それは田んぼに来る鳥を追い払うためのものだった。ぼくは早朝からのこの爆発音に悩まされたが、なぜか翌年からは無くなった。

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次回は一人暮らしの朝食について書きます。

2020年6月6日土曜日

2020/06/06 ノックの音 その1

そうそう、アストロ球団の「殺人L字投法」について書いたけれど、当時小学生だったぼくにとって、現実と漫画の境界は曖昧で、幼馴染を相手に何回もそれを練習した。他の多くの漫画でもそれは同じで、「ゲゲゲの鬼太郎」では妖怪の存在を信じて妖怪探しをしたし、「キテレツ大百科」ではボールと洗面器でコロ助を作ろうとした。そんなぼくを見かねた母がある日片っ端から漫画を処分してしまった。残ったのは「美味しんぼ」1冊と「クッキングパパ」1冊だけで、それ以降のぼくはその2冊を交互に読むことしかできなかった。なんとそれは高校3年まで続き、受験を控えたぼくは夜な夜なその2冊に読みふけていた。

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“ノックの音”

進学がきっかけで18歳から一人暮らしを始めた。
と言うか、親への共依存から逃れるべく、進学をきっかけに一人暮らしをすることにしたのだった。
でも実際は学生マンションで出来た友人に甘え通しで、ぼくから親代わりにされた彼はとても大変だったはずだ。

大学はひどい田舎にあり、もともとは学生寮だったその学生マンションは田んぼの中にぽつんと建っていた。
周りにあるのはひたすら、山、田んぼ、古墳と寺で、ティーンエージャーが住むにはのどか過ぎる環境だった。
マンション名は「シティコート」なのだが、シティと言うにはあまりにそこは鄙び(ひなび)ていた。
だから、と言うのではないけれど、一人暮らしを始めたぼくは一人きりの空間と有り余る時間を前にどうして良いのか分からなくて、途方にくれてしまった。

真新しいその学生マンションのベランダから見えるのは、広い空、山の斜面に立つ大学の校舎、田んぼ、後はコンクリート工場のサイロだけ。
一日の授業が終わると、(親代わりにしていた)友人をまねて、自炊を始めていたぼくは、食材の買い出しへ行き、そして夕飯を終えると後はひたすらテレビ相手に一人の時間を過ごしていた。
毎日の買い出しは駅前のスーパーなのだが、歩くと片道40分近くかかるので、自転車で通ったのだけれど、田んぼ脇の通りは狭く、車を避けつつぎりぎりで走らねばならない。なので卒業までの4年の間にその友人もぼくも田んぼに落ちた。ぼくの時は水がはられていなかったのだが、友人のときはどうだったろうか、それが思い出せない。

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続きはまた。

2020年5月30日土曜日

2020/05/30 まんが万歳

以前から漫画について書きたいと思っていたのは、とんでもない漫画を知っているからだ。古い漫画なのでぼくの同年代や若い人はあまり知らないと思う。
「アストロ球団」と言う。
読まれたことがあるだろうか?
ぼくは残念なことに復刻版で5巻までしか読んだことがないのだけれど、驚くべき内容だ。
巨人・大鵬・目玉焼き、などと言われた野球漫画全盛の頃に描かれたものだと思うのだけれど、ここでは王貞治さんがワンちゃん、投手だった金田さんはカネやんなどと愛称で呼ばれ、ぼくなどは名前も知らなかったのだけれど、「赤バット」の通称で知られる川上哲治さん、歴史的な背景を掘り下げたくなる沢村賞の沢村栄治さん、そして勿論長嶋さんなど歴史的な人物が多く出てくる。

が、驚くのはそこじゃない。
何しろ野球の試合中、それも一試合の最中にばんばん選手が死んでゆくのだ。それも事故ではなく、球のために(笑
例えば憧れの「殺人L字投法」だ。これはムナシ(虚しい、から来た名前だろうか)と言うピッチャーが投げる強烈な回転がかかった変化球なのだ。超スローな球で簡単に打てるのだが、バットに当てたが最後、蛇が絡みつくようにその球がバットを這い上がってきて、バッターを強打し、バッターは死に至る!

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写真はRICOHのコンデジで撮ったもの。
通常の写真は長方形に撮れるけれど、当時写真学生だったぼくには、この正方形のフォーマットが憧れだった。
ハッセルブラッドをはじめとして、このフォーマットで撮れるカメラは高額で手が出なかったから。
カメラがデジタル化されて、正方形撮影が容易になった。
本当ありがたいことなのです。

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ではまた次回に。

2020年5月25日月曜日

2020/05/25 陰謀論(コロナウイルス)

退職金7000万てのは大きく出たね。訓告ってのも普段聞かない言葉でいやらしい処分だ。でもこれ、実は良い解決策がある。コロナ給付金の引き上げだ10万から7000万へのステップアップ。一人の男の退職金としてそれだけ出せるのなら、現役世代にもそれくらいは出せるであろう。これでほとんどの国民が不満解消間違いなしだ。ぜひお願いしたい。

ところでネットを見ていると、「色々問題があっても今の権力者?たちを選んだのは我々国民一人一人なのだ」と言う意見をみかける。でもそれって本当にそうなのかな、と思う。少なくともぼくは何かの事件に絡んで(汚職、賄賂や失言など)名前が上がり、いつの間にか忘れられていった人たちを誰一人として選んだ覚えがない。
それでも“選んだ”と言うのなら自動的にその人たちが選ばれるようなシステムがあるとしか思えない。賢い人がいて選挙のシステムを考えたときに、自分たちへ票が集まるような構造を作ったのだ、と陰謀論好きとしては考えてしまう。
下々が投票できる一握りの議員たちが、段階的にいつの間にか我々がメディアでしか存じ上げないトップの議員たちを擁立する、そんなピラミッド構造があるのではなかろうか。
陰謀だ。陰謀。と冗談はさておき、前回の続きでコロナ絡みの陰謀論を展開してゆこう。

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新型コロナウイルス蔓延を受けて、今後どのような影響が出てくるか。
生きてゆく上で“衣食住”が要として、“食”はどうだろう。食品の多くを輸入に頼っている日本(グーグルで検索すると、2018年度で自給率は37%だそう)では、もし海外からの輸入が減少してしまったら、大変なことになりそうだ。日本には非常食の用意があるのだろうか?これは検索してもヒットがなく、個人に委ねられているのかも、、。“食”はとてもシビアな問題なのではないだろうか。
ぼくはいま東京の西部(多摩地域)に住んでいるのだけど、周辺の古くから住む地主の多くは畑を持ち、人によっては庭に小ぶりながら田んぼまである。越してきた当初は驚いたものだ。でも、生き永らえてゆく上で、これは本来あるべき姿なんじゃないか、と最近つくづく思う。
最低限の住処と、服と、「食」。これが確保できれば極端な話、それ以外の仕事がなくとも生きて行ける。もっともっと耕すべきなんじゃないか。そもそも、多くの人達は畑を耕す代わりに、なにか他の仕事をしているのだから。「食」を手に入れるために(余裕のある人はその他、趣味のものがあるだろうけれど)働いているのだから。
と、こんなことを考える余裕ができたのは、コロナ自粛のおかげだ。
コロナウイルスで多くの人が苦しんでいる。
この先どうなるのか、分からない。
でも皮肉なもので、今回の自粛騒ぎでぼくは恩恵を受けた。
勤務時間が減り、体調管理がしやすくなった。
通勤時、これまでのような満員電車ではなくなった。
家族で過ごす時間が増え、自宅を掃除する時間が出来た。
そして多分、今回のようなことがなければ、決して手に入れることのできなかった、「自分の時間」を過ごすことが出来ている。日本で働く、多くの人にとってはどうなのだろう。
このウイルスが零細企業のサラリーマンたちの思念が生んだ産物だとしたら、いつ本当の収束を迎えるのだろう。

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次回は、たぶん、漫画について思うことを。

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写真はiPhoneで撮ったものを組み合わせて作った。
ここ何年かスマホでばかり写真を撮っていたけれど、最近リコーのコンデジを手に入れた。だからそのデジカメで撮った写真を次回から載せられるので楽しみにしている。リコーの写りは自分のiPhoneと比べて、さすがに綺麗。だけど、古いコンデジなので暗い場所ではノイズが目立つ。もう一つやっかいなのはInstagramに写真をアップする場合だ。リコーからPCにデータを移し、さらにPCからメールでiPhoneにデータを送り、それでやっとインスタにアップできるってことで手間がかかりすぎる。もっと効率のいい方法があるのだろうか。

2020年5月19日火曜日

2020/05/16 陰謀論(covid-19)

写真はいわゆる三密である。
草むらで密談、隠密、密会。
何かをくわだてている。
以前から、ぼくは陰謀論に興味をひかれる。
自分自身に当てはめれば、花粉症が筆頭に上がる。
もう30年近くも前からぼくは花粉症に苦しんでいる。
鼻がつまってまともに息ができない時などは、その辛さを例えるなら、水を張った洗面器に顔をつけて、息継ぎしようにもできない苦しみとでも言おうか。
春になり毎年毎年この辛さを味わっていると、この花粉症ってヤツが何かの陰謀じゃないかと思えてくる。
なぜ、そんなことをするのか。
製薬会社やマスク会社のたくらみだと言う人がいる。
なるほど、ありそうな事だ。
映画の世界では水道水に毒薬を混ぜたジョーカーをバットマンがやっつけた。ジョーカーがなぜそんな事をしたのか良く覚えていないけれど、金のためではなかった気がする。
単純に自分の楽しみのため。
人を困らせるのが彼の趣味だったような、、。
目のかゆみと鼻づまりが続き、頭に霞がかかり、だるくて何も手につかなくなると、後はもうひたすら横になって眠り続けるしかない。そしてまたいつの日か目覚めとともに鼻が詰まるのだ。そんなザマを誰かが陰で眺めて喜んでいるのだろうか。さすがにそんな事は無さそうだが。
特効薬万歳!

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さて、この度のウイルス蔓延に陰謀論を当てはめるとどうだろうか。強国の覇権争いに拠るなれの果てだろうか。
5G獲得は情報戦を制することになるようで、アメリカと中国が熾烈な争いをしてきたところでのこの騒動だからだ。
しかしこれをぐっと身近に、自分の回りで起きている影響を考えてみると、トイレットペーパーやマスクや消毒液が手に入らなくなり、出勤日数が週5日から週2〜3日に減り、外出に気を使うようになって、家族揃っての外食や買い出しを控えるようになった。それにともなってLINEやInstagramでの情報交換、電話での通話時間、それから家族でYoutubeを楽しむ時間が増えた。後は自宅を掃除する時間が増えた。

これをどう考えたら良いのだろう。
2011年には大震災が起こり、原子力発電所が爆発した。
この震災による影響はまだ収まっていない。
当時いつまでも続く強い揺れに、ぼくは家が倒れてしまうのではないかと強い恐怖を感じた。
翌日、仕事を終え、戻った事務所で福島での事故を知った。
そしてラジオやテレビを通して、この原発事故の影響を知るにつけ、新たな恐怖が募った。それは地震による揺れや津波とはまた違う、見えないものに対する恐怖だった。それから計画停電が始まり、ガソリンスタンドの前では渋滞が起きた。テレビやラジオからはいつものCMがなくなり、同じものが繰り返し流された。それはまさに、緊急事態だった。

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次回に続けます。

2020年5月15日金曜日

2020/05/15 秘密基地その11

写真は10年ほど前のもの。最近はすっかりスマホカメラばかり使っているけれど、この時はまだガラケーだった。だからこの写真は一眼レフで撮っている。

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秘密基地 その11

狭くて息苦しい穴から抜け出し、排水口の蓋を押し上げて顔を出すと、そこにおばあちゃんが立っていて、不思議そうに僕等を見ていた。
とっさに叱られると思った。
でもおばあちゃんは口を開かず、僕等を見ているだけ。
何か言い訳しなきゃと思い、ぼくは「大事なものを落としちゃって、探してたんだ」と話した。
「見つかった?」と聞かれて、見つかったと答えると、良かったね、と言いながらおばあちゃんは中を覗き込み、狭い排水口の中に4人もいるのを見て、「ツバメちゃんみたいね。気をつけてね」と言って、離れていったのだった。
長いこと何が「ツバメちゃんみたい」なのかが分からなかった。でも、今ならわかる。

それから少ししてみんなの塾通いが始まり、新しい秘密基地づくりの機会はなくなった。楽しい基地づくりよりも勉強を優先する理由がぼくにはわからなかったけれど、そんなぼくも、その半年ほど後から塾通いをするようになった。
塾へ行かせることに決めた、と言われて「学校に行ってるじゃないか。これ以上勉強なんて嫌だ。今は遊びたいんだ」と母親に言ったのを覚えている。
開放された自由な空気感が秘密基地にはある。逆に束縛するもの、当時それは親や教師だった。その秘密基地づくりができなくなって、しかも塾の講師という新たな敵ができてしまったのだった。

それから義務教育を終え、高校を出て、一人暮らしを始めた。そのスタートは学生マンションで、いまも集合住宅に住んでいる。でもそれはあの頃憧れていた秘密基地とはやっぱりどこか違う気がする。

2020年4月26日日曜日

2020/04/26



写真は牛久の大仏様。高さは120m、とにかく大きい。
連れてこられた子供が驚いて泣いた、という噂もあるほど。
1993年に作られたそうです。

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前回から3年以上空いてしまった。
この間に子供が生まれ、2回引越しをした。
自営業だったのが、会社員になった。
環境の変化で目眩がするほど。
これまでは出来るだけ自分の幼い頃の記憶から遡って、
ブログをつけてきたけれど、
これからはいま自分が感じていることや思っていることも書いていきたい。でもまずは前回からの続き、秘密基地の話を完結させます。

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秘密基地 その10

防空壕を基地にすることが出来なかったぼくらは、次に排水溝を秘密基地にした。

その日、基地へ集合してみると前日の雨で基地の中に置いていたものが押し流されていた。
ぼくらの秘密基地は排水溝とは言え、その貯水部分でそれなりの広さがある。そこへバスマットを引き、色々なものを持ち込んで基地にしていたのだけれど、それが雨で押し流されてしまった。
流されたものは基地にしていた貯水部分と比べ、はるかに狭い排水路で、ガラクタばかりだし放っておこう、と思ったのだけれど、「自転車の空気入れが無くなったら困る」と一人が怒り出し、それでぼくらはしかたなく、その狭い水路に入ることになった。
四つ這いになり、一列になって穴の中を這い進む。
満足に頭を上げられないほど、穴の中は狭くて息苦しさを覚える。
ぼくらは自分たちが進んでいる方向だけはわかっていた。
ここを進めば行き着くのは通りの交差点だ。
でもそれは外での話で、頭上でのこと。
この排水路の中は暗く、狭く、景色は変わらず、いつまでたっても自分たちがどの辺を這っているのか分からなかった。
僕等はひたすら前を行く友達の靴底を見ながら這い進む。
しばらくは服が壁を擦る音と自分たちの息遣いばかりが耳についた。
次第にその狭さと息苦しさで、いくら進んでも自転車の空気入れは見つからず、後戻りも出来なくなって、このまま排水溝から出られなくなるのではと、怖くなった。
なので僕は「空気入れ、見つかった?」と声をかけた。
「まだ見つからない」そう返事があって、
「もう探すのやめて戻ろう」と答えたけれど、
「あれは家の空気入れだから、無くしたら困る」と言われて、また這い進む。
それからずいぶん前進して、肘や膝が痛くなってまた泣き言を言い出したくなった頃、やっと空気入れが見つかった。
「見つけた」と先頭から聞こえてほっとした。
それから「これ持って下がれないから、後ろに回して」と後ろ手に空気入れが回されてくる。
受け取った空気入れをぼくも股の間から後ろに回す。
「戻って!」と先頭から声が上がった。
皆んな息苦しくて、早く戻りたいのだ。
前進するのもやっとの狭い排水溝を、後ろ向きに下がって進むのはさらに大変なことだった。
くるっとUターンしたくても、それだけの幅がない。
窮屈な中を無理やり後ろ向きに進むことで何回か前の友達の靴がぼくの手を踏み、ぼくの靴が後ろの友達の手を踏んだ。とても息苦しかった。
「こんなの持ったまま下がれない」一番前を行く(後ろ?)友達が空気入れを抱えたまま進むのが辛い、とぼくに空気入れを渡してきた。そしてまたぼくらは息を切らしながらきた道を戻りだした。
でもぼくも直ぐに音を上げた。
ただでさえ這い辛いのに、空気入れが邪魔で仕方ない。
「自分で持って行きなよ」とぼくは家からこの自転車の空気入れを持ってきた本人にそれを渡した。
どうにか自分たちの秘密基地へ辿り着いた。
排水溝の中とはいえ、広い空間へ戻りほっとした。
それは皆んなも同じ気持ちで、4人集まるとひとしきり声を上げて不安だった気持ちを発散した。そして外の空気を思い切り吸うべく、秘密基地の蓋である格子状の鉄蓋を開けて顔を出した。するとそこに一人のおばあちゃんがいてぼくらのことを見下ろしていた。

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続きはまた直ぐに。
秘密基地の話は次で完結します。